【わかりやすい】今日は何の日&雑ブログ

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【1月9日 記念日】とんちの日/クイズの日〜今日は何の日〜

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1月9日は「とんちの日/クイズの日」です。「とんちの日/クイズの日」に関係するトピックスを紹介します。朝礼やその日のネタにでもなれば幸いです。

 

とんちの日/クイズの日

「とんちの日/クイズの日」は、"頓智(とんち)"で有名な"一休さん(いっきゅうさん)"にちなんで、「いっ(1)きゅう(9)」と読む語呂合わせからから制定されました。

 

アニメのイメージとは違う一休さん

日本の40歳代以降の人達にはお馴染みの、"とんち"で有名な一休さん。1975年(昭和50年)10月から1982年(昭和57年)6月まで放映されたアニメによって、一休さんは有名になりました。とんちをひねり出す時に、まず胡座をかいて、両手の人差し指を舐め、その指で側頭部に2回ほど円を描いてから座禅を組み、ポク、ポクという木魚の効果音が流れ、に瞑想する。 その後、閃いたときにはチーンという仏鈴の音が鳴るシーンは、誰もがご存知と思います。

このアニメでの一休さんは、たびたびとんち勝負や様々な問題のために、そのとんちを使って解決させて、みんなのヒーロー約で、きれいなイメージがありますが、実際の一休さんは、少し違っていたようです。

天皇の血をひいている

南北朝の内乱が終わって間もない頃、1394年(応永元年)に、京都の嵯峨で、一人の男児が誕生しました。その男児は、南北朝統一の象徴となった北朝の後小松天皇の皇胤(こういん=天皇の子供)で、千菊丸(せんぎくまる)と名付けられました。この男児こそが一休です。

南北朝統一を成し遂げた足利義満は北朝を重視していましたが、一休の母である伊予の局(いよのつぼね)は南朝系であった為、一休が政治的に利用されることを懸念して、一休の母は、わずか6歳で臨済宗の安国寺(あんこくじ)に入れ、出家させたのです。

悲しみのあまりに自殺未遂

6歳で安国寺に入った千菊丸は、周建と名付けられます。入門してからは、早くから詩才に優れ、巧みな漢詩文を詠むなど、優れた才能を発揮します。

1410年(応永17年)、16歳になった周建は、地位や金銭に執着して堕落していく修行僧の姿に絶望し、11年間修行に励んだ安国寺を去り、西金寺(さいこんじ)の謙翁宗為(けんおう そうい)の元に弟子入りし、戒名を宗純と改めます。

しかし、入門から4年後の1414年(応永21年)、宗純が20歳の時に、慕っていた師匠である謙翁が病でこの世を去ると、宗純は悲しみの余り、後を追って瀬田川に入水自殺を図りました。謙翁の死から一週間、石山観音に籠りますが、悟りが開けず近くの川に身を投げようともしましたが、宗純の様子が変だと気付いた伊予の局が監視役をつけていたおかげで、命を落とさずに済みました。

「一休」という名の誕生

翌年の1415年(応永22年)には、滋賀の堅田にある祥瑞庵(現在の祥瑞寺)の門を叩き、その高僧、華叟宗曇(かそうそうどん)の弟子となります。

宗純華叟より「洞山三頓の棒」という禅宗の課題を与えられます。1418年(応永25年)の24歳の時、盲目の琵琶法師が語る「平家物語」を聞き、その時の気持ちを歌に詠みました。

「有漏路(うろじ)より無漏路(むろじ)に帰る一休み  雨ふらば降れ  風ふかば吹け」

(人生は煩悩溢れるこの世から、来世までのごくわずかの一休みの出来事。雨が降ろうが風が吹こうが大したことではない。)

この歌を聞いた華叟は、歌の中にある“一休み”という言葉を取り、「一休」という道号を授けます。これが一休の由来です。

その2年後の1420年(応永27年)の26歳の時、琵琶湖を渡る爽やかな風の中で、暁の鴉(からす)の声を聞いた時、ついに悟りを開きました。その悟りを華叟も認め、悟りの証明である“印可(いんか)”を授けようとしました。しかし、権威を嫌う一休はこれを受け取りませんでした。禅僧は悟りへの欲求さえも捨てるべきと考えた一休は、地位も名誉も必要とせず、身形すら気に掛けなかったのです。師匠の華叟が亡くなった後は祥瑞庵を離れ、各地を巡遊するようになります。

一休の恋

1467年(応仁元年)の一休が73歳の時、京都の町を焼き尽くした「応仁の乱」が起こり、一休は戦火から逃れる為に、大坂(現在の大阪)に避難します。

3年後の1470年(文明2年)、一休が76歳の時、摂津国住吉大社神宮寺の新羅寺本堂・薬師堂森侍者(しんじしゃ)と出会います。森侍者は盲目の美しい女性で、鼓を打つ旅芸人でした。一休は薬師堂で、歌を歌いながら鼓を打つ森侍者の姿を見て、惚れ込みます。この時の一休は76歳、対する森侍者は30歳前後。年齢に50歳ほどの開きがありましたが、互いに惹かれ合ってゆきます。

2人は京都府京田辺市の甘南備(かんなび)山の麓に、一休が再建した酬恩庵(しゅうおうあん)に移り住み、一休が亡くなるまで森侍者と共にここで過ごしました。

一休の最後の言葉「死にとうない」

1481年(文明13年)、一休酬恩庵において、マラリアにより死去します。享年88でした。臨終前に「死にとうない」と言葉したそうです。一休のお墓(御廟所)は酬恩庵にあり「慈揚塔」と呼ばれますが、宮内庁が管理している陵墓である為、一般人は立ち入れませんが、廟所の建物は外部からでも見える。参拝は門の前で行います。