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【1月21日 記念日】ライバルが手を結ぶ日〜今日は何の日〜

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1月21日は「ライバルが手を結ぶ日」です。「ライバルが手を結ぶ日」に関係するトピックスを紹介します。朝礼やその日のネタにでもなれば幸いです。

 

ライバルが手を結ぶ日

「ライバルが手を結ぶ日」は、旧暦の1866年(慶応2年)1月21日に、敵対関係にあった薩摩藩と長州藩が、薩長同盟(薩長連合)を結んだことに由来しています。

江戸時代の末期、薩摩藩と長州藩は、経済力や政治力があり、政局への発言力もある有力な藩でした。当初、この2藩は、政治思想の相違により、犬猿の仲となっていました。薩摩藩が公武合体の立場(公家=朝廷と武家=幕府が協力して政局にあたるべきであるとする思想)から、幕府の開国路線を支持しながら幕政改革を求めたのに対し、長州藩は急進的な破約攘夷論(日米修好通商条約を破棄し外国排斥すべきであるとする思想)を掲げて反幕的姿勢を見せ、両者は敵対関係にありました。そんな中、倒幕を目論んでいた土佐藩の坂本龍馬らが仲介に入り、1866年(慶応2年)の1月21日に、薩摩藩の西郷隆盛と小松帯刀、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)らが京都の薩摩藩の邸宅で会見し、倒幕のために薩長同盟(薩長連合)を結びました。

 

薩長同盟の経緯

開国と不平等条約の締結

1853年(嘉永6年)6月3日に、開国と通商(貿易)を求めたアメリカ大統領の親書を携えて、ペリー率いる艦隊が浦賀沖に来航しました。翌年の1854年(嘉永7年)3月3日には、日米和親条約が締結され、下田と箱館(現在の函館)が開港されました。これにより、長年に渡って続いた鎖国体制は終焉を迎えます。そして、開国から4年後の1858年(安政5年)6月19日に、アメリカ総領事のハリスと江戸幕府大老の井伊直弼との間で、日本にとっては不利益な内容の日米修好通商条約が締結されます。

尊皇攘夷運動が活発化

約200年間続いた鎖国からの開国、そして不平等条約の締結により、日本国内では大変な混乱に陥入りました。また、この不平等な条約によって、日本人は外国人に対して嫌悪感を抱くようになっていきます。その結果、外国(外敵)に対抗するべく、外国人を排斥しようとする思想が生まれます。これが攘夷論(じょういろん)です。さらに、幕府が朝廷の許可なく通商条約を締結した結果、日本国内が混乱に陥ったことから、幕府ではなく、天皇を中心に国をまとめようとする思想が生まれます。これが、尊王論(そんのうろん)です。そして、この尊王論と、攘夷論が結びついて、下級武士を中心に尊王攘夷運動がおこります。

幕府による公武合体政策

そんな中、1860年(安政7年)3月3日に桜田門外の変が起こり、不平等条約を締結した江戸幕府の大老井伊直弼が暗殺され、幕府は強いリーダーを失います。その後、幕政の中心にすわった老中安藤信正は、不平等条約締結により対立した朝廷との関係を改善しようとして、朝廷(公)と幕府(武)が協調して政局を安定させようとする公武合体政策を進めました。その一環として、当時の天皇孝明天皇の妹和宮と、幕府将軍徳川家茂の結婚を実現させ、天皇の権威を借りて、幕府の権力を取り戻そうとしました。しかし、この強引な結婚が尊王攘夷論者を刺激し、1862年(文久2年)1月15日に、坂下門外の変が起こり、安藤信正は江戸城の坂下門外で水戸藩を脱藩した浪士らに襲われて傷つき、失脚することになります。幕府の権威は失墜し、幕府に反対する尊皇攘夷派の動きも激しくなり、長州藩を中心とした大きな勢力となっていきます。

薩長藩と長州藩の戦い

1863年(文久3年)8月18日 八月十八日の政変

1862年(文久2年)頃から京都内では、尊皇攘夷派の長州藩を中心とした志士が、活発な活動を開始します。また、1863年(文久3年)5月10日には、長州藩が下関海峡にて外国船を砲撃して日本国内に対して攘夷を示しました。しかし、他藩はこれに続かなかった為、長州藩は将軍徳川家茂に、攘夷を実行させるため、天皇による攘夷親征(大和行幸)を計画します。この計画は、孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸する際に、大阪城にいた将軍徳川家茂も同行させて、天皇から将軍に攘夷を命令させ、徳川幕府が攘夷を行うしかない状況に追い込もうとしました。これを知った公武合体派の会津藩と薩摩藩は、京都守護職に就いていた会津藩主松平容保に了承のうえ、薩摩藩士高崎正風と会津藩士秋月悌次郎が、公武合体派である公家中川宮に接触して、尊皇攘夷派である公家と長州藩を一掃することを提案します。そして、中川宮が孝明天皇へ、長州藩が朝廷を利用しようとしていると説得し、長州藩を京から排除せよとの密命が下ります。

1863年(文久3年)8月18日の早朝、会津藩と薩摩藩などの兵が御所の九門を閉鎖。長州藩が警備担当していた堺町御門も、他藩の警備にと変更され、朝廷から長州藩寄りの公家三条実美姉小路公知や、長州藩主毛利敬親毛利定広の父子にも処分が下されました。そして、失脚した三条実美三条西季知四条隆謌東久世通禧壬生基修錦小路頼徳澤宣嘉の計7人の公家は、京に滞在していた長州藩の兵に守られながら長州へと下り、尊王攘夷派の長州藩は京を追われることになりました。この事件により、長州藩は会津藩と薩摩藩に対して激しい恨みを抱くようになります。

1864年(元治元年)6月5日 池田屋事件

長州藩は、八月十八日の政変によって失った主導権を奪還する機会をうかがっていました。この動きを監視する為、京都守護職松平容保新選組を用いて、京都市内の警備や捜索を行わせます。そして、その京都で桝谷喜右衛門と名乗り、尊皇攘夷派を支援していた古高俊太郎の存在を突き止め、新撰組古高俊太郎を捕縛しました。捕縛後の拷問によって、「祇園祭の前の、風の強い日を狙って御所に火を放ち、その混乱に乗じて八月十八日の政変の黒幕である中川宮を幽閉し、一橋慶喜松平容保らを暗殺し、孝明天皇を長州へ連れ去る」という計画を自白させます。さらに、長州藩・土佐藩・肥後藩などの尊王攘夷派が、捕縛された古高俊太郎を奪回するための襲撃計画を決める会合が、池田屋もしくは四国屋において行われることを突き止めます。

新撰組は近藤勇隊と土方歳三隊の2班に分かれ、それぞれ会合が行われる疑いがある池田屋四国屋に向かいます。池田屋に向かった近藤隊が尊皇攘夷派の志士達を発見し、突入して戦闘になりました。一次は新撰組が劣勢となりましたが、土方隊が合流してからは挽回し、2時間にわたる戦闘は終わります。この戦闘で、長州藩をはじめとする数多くの尊皇攘夷派の志士達が亡くなり、長州藩の怒りはますます高まっていくことになりました。

1864年(元治元年)7月19日 禁門の変(蛤御門の変)

八月十八日の政変以降、京都での足掛かりを失った長州藩の内部では、今後どうするべきか、意見が分かれました。強硬派である来島又兵衛らは「すぐにでも京都に兵を出し、長州藩の行動が正しいものだと示そう」と強く主張します。一方、慎重派である桂小五郎高杉晋作らは「まだ早い。もっと慎重に」とこの動きを止めていました。しかし、池田屋事件で新撰組に長州藩士が殺されたことが伝わると、強硬派が一気に力を強め、京都に向けて出兵しました。

ついに、1864年(元治元年)7月19日、御所の西にあった蛤御門の近くで長州藩兵と会津・桑名藩兵が衝突しました。一時は勢いが強かった長州軍が御所内部に侵入しましたが、薩摩軍が会津・桑名兵を救援したため形勢は逆転し、長州藩は大敗することになります。

この戦いは一日で終わりましたが、落ち延びる長州藩兵が長州藩屋敷に火を放ち逃走したことや、会津藩兵が長州藩士の隠れているとされた中立売御門付近の家屋を攻撃したことにより、この二箇所から上がった火を火元とする大火(通称:どんどん焼け)により京都市街は21日朝にかけて延焼し、京都市内811町に渡る民家27511戸、土蔵1207棟、寺社253などが焼失しました。

倒幕論の高まり

長州藩の倒幕論

禁門の変を起こした長州藩は、御所を攻撃したことで朝敵とされてしまいます。朝敵となった長州藩に対し、1864年(元治元年)7月21日に朝廷から長州追討の勅許を得た幕府は、諸大名に長州藩討伐を命令第一長州征伐を宣言します。さらに翌月の1864年(元治元年)8月4日には、前年の下関戦争の報復として、アメリカ・フランス・イギリス・オランダによる四か国連合の攻撃を受けます。反撃した長州藩でしたが、圧倒的な戦力差の前に降伏します。この敗北により、長州藩は攘夷から倒幕へと考え方を変化させていきます。

薩摩藩の倒幕論

公武合体派であった薩摩藩でも倒幕論が高まっていきます。八月十八日の政変が起きる前年の1862年(文久2年)8月12日に、生麦村(現在の神奈川県横浜市鶴見区生麦)で、薩摩藩の大名行列を横切ったイギリス人の非礼をとがめ、殺傷事件(生麦事件)が起きます。そして、この事件をきっかけに、翌年の1863年(文久3年)7月2日に薩英戦争が勃発します。その結果、薩摩藩は壊滅的な被害を受けますが、一方のイギリスも、薩摩藩の攻撃によって大破1隻、中破2隻、旗艦の艦長や副長を含む死傷者63人という被害を出します。その後、イギリスは薩摩藩を高く評価するようになり、関係を深めていき、そして、薩摩藩も欧米文明と軍事力の優秀さを改めて理解し、武器の輸入や留学生の派遣など改革を進めていき、イギリスとの友好関係を深めていきました。また薩摩藩は、今回の戦いによって外国との力の差を知り、朝廷と幕府が協力をして外国勢力を打ち払おうとする公武合体論を改めて、幕府を倒して新しい日本を作ろうという考えに変わっていきます。

坂本龍馬の仲介

土佐藩出身の坂本龍馬は、欧米に負けない新しい国をつくるためには、薩摩藩と長州藩が協力する必要があると考えます。ただ、薩摩藩と長州藩は、八月十八日の政変禁門の変などにより、互いが犬猿し合う仲でした。この仲をなんとかしよう考えた坂本龍馬は、両藩が倒幕の考えが一致していること、長州藩は倒幕の為の武器が欲しいこと、薩摩藩は倒幕の為の兵力が欲しいこと、この3つの利害関係を使って両藩を結びつけようとします。

坂本龍馬は長崎の亀山に亀山社中(のちの海援隊)という日本で初となる貿易会社を作りました。そして、薩摩藩の名義で欧米から最新武器を大量に購入し、それを亀山社中経由で長州藩に売り渡すことで、表立っての武器購入が禁じられていた長州藩には大量の武器や戦艦が入ってきました。このような亀中社中の働きがあり、両藩の関係は修復に向かい、再び交渉の場が設けられることになります。

薩長同盟締結

坂本龍馬とその盟友だった中岡慎太郎は、この貿易上の協力関係を軍事同盟にまで発展させました。1866年(慶応2年)の1月21日に、坂本龍馬の仲介のもと、薩摩藩の西郷隆盛小松帯刀、長州藩の木戸孝允(桂小五郎)らが京都の薩摩藩の邸宅(小松帯刀邸)で会見し、倒幕のために薩長同盟(薩長連合)を結びました。

薩長同盟の6箇条

①長州藩と幕府軍の戦が開始されたら、薩摩藩は京都に2,000人の兵を派遣すること

②長州藩が勝利しそうな状況なら、長州藩の政治的復権のために薩摩藩は朝廷に申し出る様に尽力すること

③長州藩が劣勢の場合、一年や半年で壊滅するようなことはないので、その間は薩摩藩が長州藩を支えること

④幕府軍が江戸へ撤退したら、薩摩藩は朝廷に長州藩の無実を訴え、長州藩の名誉回復に努めること

⑤一橋藩、桑名藩、会津藩などが今のように朝廷を利用して、薩摩藩の行動を害したときは薩摩藩も幕府に決戦を挑むこと

⑥長州藩の名誉が回復されたら、誠意をもって一致団結し、天皇中心の世を作り国と天皇の威光回復に尽くすこと

薩長同盟締結の影響

薩長同盟が結ばれた5ヶ月後の1866年(慶応2年)の6月に、幕府は朝廷からの許しを得て、再び倒幕の動きを活発化させている長州藩の討伐第二次長州征伐が始まりました。幕府は圧倒的な数で長州藩へ攻め入りますが、薩長同盟によって、薩摩藩の支援と大量の最新鋭武器を手に入れた長州藩に大敗します。

この大敗がきっかけとなり、幕府の権威は失墜し、倒幕運動が加速化しました。

幕府の求心力が衰える中、15代将軍に就任した徳川慶喜は幕府政治の立て直しを図ります。
そのような中、公武合体を主張して幕府を支えていた孝明天皇が崩御しました。すると、公武合体の立場をとる土佐藩は、坂本龍馬らが前藩主山内豊信を通じて、徳川慶喜に政権を朝廷に返し新たな政治体制をつくる大政奉還を申し立てます。徳川慶喜はこれを受け入れて、薩長同盟締結から約1年後の1867年(慶応3年)10月14日、260年余りにおよぶ江戸幕府に終止符が打たれることになりました。