1月27日は「国旗制定記念日」です。「国旗制定記念日」に関係するトピックスを紹介します。朝礼やその日のネタにでもなれば幸いです。
国旗制定記念日
国旗制定記念日は、東京都千代田区丸の内に事務局を置き、国を象徴する国旗の正しい理解と普及を目的として設立された一般社団法人国旗協会が制定しました。
1月27日である理由は、旧暦の1870(明治3年)の1月27日に、太政官布告第57号の商船規則で、国旗のデザインや規格が定められたことに由来します。
規格が定められるまでは、船によってまちまちのデザインの旗を使っていましたが、列強の仲間入りを図る為に規格を定めて、国旗のデザインを統一させました。当時の規格は、縦横の比率は7:10で、日の丸が旗の中心から旗ざお側に横の長さの100分の1ずれた位置とされていました。現在では、1999年(平成11年)の8月13日に公布・施行された国旗国歌法により、縦横の比率は2:3、日の丸の直径は縦の長さの5分の3、日の丸は旗の中心の位置となっています。
日本の国旗(日章旗)の歴史
日本の国旗は、白地に赤丸が描かれた旗ですが、法律上は日章旗(にっしょうき)と呼ばれ、日本では古くから日の丸(ひのまる)とも呼ばれています。では、この日の丸はいつから使われるようになったのでしょうか。
文献に残る最古の「日の丸」
日の丸の起源とされる文献が出てくるのは、今から約1300年前までに遡ります。
農耕民族だった古代の日本人にとって、太陽はとても大切な存在で、信仰の対象となっていました。日本人の皇祖神(こうそしん)である天照大御神(あまてらすおおみかみ)も太陽神だといわれています。推古天皇(すいこてんのう)の時代に、聖徳太子が隋(現在の中国)の煬帝(ようだい)へ送った国書には、「日出る処の天子、書を没する処の天子に致す」と綴っています。また、飛鳥時代末期には、国号を「日本」(日ノ本)と命名したところからも、太陽(日の出)を意識していて、「日が昇る」という現象を重視していたことがうかがえます。
この太陽を象った旗が用いられるようになったのは、大化の改新(645年)以降と考えられています。文献に初めて登場したのは797年の続日本紀(しょくにほんぎ)です。この続日本紀によれば、701年(大宝元年)に文武天皇が、朝賀の儀において、「正月元旦に、儀式会場の飾りつけに『日像』の旗を掲げた」と記されています。これが日の丸の原型で最も古いものといわれています。ただ、この頃はまだ、白地に赤丸ではなく、赤地に金丸であったと見られています。
白地に赤丸となったのは源平合戦がきっかけ?
今の日の丸のように白地に赤丸となったのは、源平合戦に由来するという説が有力となっています。平家が朝廷の象徴である「錦の御旗」と同じ配色の「赤地に金丸の旗」を、源氏は「白地に赤丸」を掲げて戦ったといいます。戦いの結果、平家が滅亡し、源氏による武家政権が誕生すると、代々の将軍は源氏の末裔を名乗って「白地に赤丸」の日の丸を掲げ、天下統一を成し遂げた者の証として受け継がれていったといわれています。
国旗としての「日の丸」
「日の丸」が日本を代表する旗として登場するようになったのは、幕末の頃となります。1853年(嘉永6年)に、鎖国中であった日本にアメリカのペリー艦隊がやってきて、1854年(嘉永7年)には日米和親条約を締結しました。それ以降、外国が日本に国交を求めて頻繁に来航するようになった為、外国船と日本の船とを識別することが必要になっていました。幕府は当初「大中黒」(徳川氏の先祖である新田氏の旗。白地に黒の横一文字)を日本惣船印にしようとしましたが、薩摩藩主島津斉彬らが幕府に建議し、幕府はこれを聞き入れて、1854年(嘉永7年)7月9日に、「異国船に紛ぎれざるように日本総船印は白地に日の丸幟のぼり」と定めました。
そして、明治時代に入り、1870(明治3年)の1月27日に、太政官布告第57号の商船規則で、日本船に掲げる国旗のデザインを白地に赤丸とし、その規格も定められました。その後、日の丸は国旗として定着していきます。
しかし、法的なよりどころとしては商船規則による慣例的な扱いでしかなかった為、1999年(平成11年)8月13日に、国旗及び国歌に関する法律が定められ、日の丸は日本の正式な国旗となりました。