1月30日は「孝明天皇祭」です。「孝明天皇祭」に関係するトピックスを紹介します。朝礼やその日のネタにでもなれば幸いです。
孝明天皇祭
宮中祭祀の一つです。
1月30日は孝明天皇が崩御した日で、
皇居内の皇霊殿と孝明天皇の陵所である京都の月輪東山陵で祭典が行われます。
1874年(明治7年)から1912年(明治45年)までは国の祭日とされていましたが、1912年(明治45年)7月30日、明治天皇が崩御されたのに伴い、この日は祭日ではなくなり、新たに「明治天皇祭」が制定されました。
孝明天皇が崩御したの旧暦の1866年(慶応2年)12月25日でしたが、1872年(明治5年)の太陽暦採用に伴い、新暦に換算した1月30日に行われるようになりました。
孝明天皇の生涯
1831年(天保2年)〜0歳〜 誕生
仁孝天皇(にんこうてんのう)の第四皇子として誕生し、煕宮(ひろのみや)と命名されました。諱(いみな)は統仁(おさひと)。明治天皇の父にあたります。
1846年(弘化3年)〜15歳〜 天皇即位
1月に父の仁孝天皇が崩御したことを受けて、2月に践祚(せんそ:天皇の位を受け継ぐこと)して、第121代の天皇に即位します。
1858年(安政5年)〜27歳〜 条約勅許問題
1853年(嘉永6年)、アメリカ東インド艦隊司令長官ペリーが軍艦4隻を率いて浦賀沖に来航して、合衆国大統領フィルモアの親書の受け取りと開国を求めるという事件が起きます。その翌年の1854年(嘉永7年)には日米和親条約が締結され、長らく続いた鎖国体制が終わりました。その2年後の1856年(安政3年)には、アメリカ総領事ハリスが、通商条約の締結を求めて来日します。通商条約の内容は、「貿易の自由化」、「日本の関税自主権を認めない」、「アメリカの領事裁判権を認めること」を骨子としたきわめて不平等なものでしたが、諸大名の多くが開国派に転じていたことや、当時の中国は、イギリスとフランスとの戦争に敗れ、不平等な条約をおしつけられていました。ハリスから、日本もアメリカと手を組まないと、イギリスにせめられるかもしれないと幕府は脅されたことから、条約締結の交渉は粛々と進みます。そして条約の草案が完成した幕府は、日米修好通商条約の調印勅許を得る目的で、老中主座堀田正睦を京都に派遣します。1858(安政5年)1月、勅許の要望を受けた孝明天皇は、内輪の人たちに、開国か鎖国かの相談をし、1月17日に九条関白へその回答を通達します。孝明天皇が出した答えは、条約締結の拒否でした。「勅許を見合わせ、調印の可否は諸大名の衆議をもってすべきこと」と命じました。九条関白へ下した言葉に、「私の代で開国となれば後の世まで恥の恥である」とあり、孝明天皇としては旧来の慣例を変更できなかったのかもわかりません。しかし6月19日、幕府は孝明天皇からの勅許を得ることなく、日米修好通商条約に調印してしまいます。九条関白の日記によれば、この条約調印に関する奉書は6月27日に京都へ着き、朝廷で評議が開かれた際には、孝明天皇は大変怒っていた様子であったと綴られています。
1862年(文久2年)〜31歳〜 徳川家茂と和宮親子内親王の婚儀
1860年(安政7年)3月に、桜田門外の変が起き、幕府の大老井伊直弼が暗殺されると、幕府の権威は急激に低下しました。そこで幕府は、権威低下の回復と、朝廷の権威を利用して反幕的な尊皇攘夷派を抑えるために、朝廷と幕府の融和を図ろうとして、孝明天皇の妹である和宮と将軍徳川家茂との婚儀を提案します。提案を受けた孝明天皇は和宮の気持ちを知って、このを一時は退けますが、再三の幕府から懇請と、侍従の岩倉具視の説得もあり、ついに攘夷の実行という条件つきで、この婚儀を認めました。
1863年(文久3年)〜32歳〜 徳川家茂将軍の上洛と孝明天皇の行幸
朝廷は、攘夷決行に踏み切らない幕府に対して決断を迫りました。1863年(文久3年)3月、なくなく将軍徳川家茂は、自分の妻が孝明天皇の妹であることもあり、自ら京都へ上洛します。将軍の上洛は229年ぶりのことでした。そして、孝明天皇は同年の3月11日に、攘夷祈願の為に将軍徳川家茂をはじめとする諸大名をひきつれて、賀茂社(上賀茂神社と下賀茂神社)へ行幸(外出)されます。天皇の行幸は1626年以来となり、237年ぶりのことでした。また、同年の4月11日には、石清水八幡宮に行幸されます。これは、長州藩が画策したもので、神前にて天皇から将軍へ攘夷の節刀を授けさせて、幕府を攘夷戦争へ踏み切らせようというものでした。しかし、この画策を知った後見職であった徳川慶喜は、将軍徳川家茂には病と称させて供奉させず、自身が名代として行列に供奉します。そして、その徳川慶喜も石清水八幡宮まで来た時に、腹痛と称して山下の寺院に籠もり、神前へは行かずに済ませてしまいます。これは、仮病を使った徳川慶喜の政略だったといわれています。
1863年(文久3年)〜32歳〜 八月十八日の政変
1862年(文久2年)頃から京都内では、尊皇攘夷派の長州藩を中心とした志士が、活発な活動を開始します。また、1863年(文久3年)5月10日には、長州藩がアメリカ船に突如攻撃を開始して攘夷を実行しました。しかし、アメリカの反撃を呼び、長州は砲台を占拠されるなど決定的な打撃を蒙ることになります。さらに、攘夷を実行したのは長州藩のみであり、他に追随する藩はなく、長州藩は孤立していきました。
孤立した長州藩は、将軍徳川家茂に攘夷を実行させるため、天皇による攘夷親征(大和行幸)を計画します。この計画は、孝明天皇が石清水八幡宮へ行幸する際に、大阪城にいた将軍徳川家茂も同行させて、天皇から将軍に攘夷を命令させ、徳川幕府が攘夷を行うしかない状況に追い込もうとしました。これを知った公武合体派の会津藩と薩摩藩は、京都守護職に就いていた会津藩主松平容保に了承のうえ、薩摩藩士高崎正風と会津藩士秋月悌次郎が、公武合体派である公家中川宮に接触して、尊皇攘夷派である公家と長州藩を一掃することを提案します。薩摩藩の計画に同意した中川宮は、孝明天皇の元を訪れ判断を仰ぎました。
孝明天皇は大和行幸に乗れば念願であった攘夷を実行できる、しかし幕府との関係が悪化させたくない、この葛藤もあって最初は決断しませんでした。ただこの頃、回りの公家がほとんど暴走気味であり、孝明天皇の意見は通らない状態となっていた為、結局は薩摩藩の計画に同意することになります。
1863年(文久3年)8月18日の早朝、会津藩と薩摩藩などの兵が御所の九門を閉鎖。長州藩が警備担当していた堺町御門も、他藩の警備へと変更され、朝廷から長州藩寄りの公家三条実美や姉小路公知や、長州藩主毛利敬親と毛利定広の父子にも処分が下されました。そして、失脚した三条実美・三条西季知・四条隆謌・東久世通禧・壬生基修・錦小路頼徳・澤宣嘉の計7人の公家は、京に滞在していた長州藩の兵に守られながら長州へと下り、尊王攘夷派の長州藩は京を追われることになりました。
この政変により、長州藩は武力倒幕に動き、禁門の変が発生、そして長州征伐へとつながっていきます。また、この一件で薩摩藩の存在感は増し、日本は明治維新へとつながっていくことになります。
1866年(慶応2年)〜35歳〜 崩御
孝明天皇は1866年(慶応2年)12月25日(新暦1867年1月30日)、在位21年にして崩御されます。宝算37(満35歳没)。死因は天然痘とされていますが、他殺説も存在し議論となっています。