2月4日は「銀閣寺の日」です。「銀閣寺の日」に関係するトピックスを紹介します。朝礼やその日のネタにでもなれば幸いです。
銀閣寺の日
「銀閣寺の日」は、1482年(文明14年)2月4日(旧暦の1月7日)に、室町幕府8代将軍足利義政が、東山の月待山麓に東山山荘(東山殿)の造営を始めたことに由来します。
銀閣寺の概要
銀閣寺は、正式には東山慈照寺(とうざんじしょうじ)といいます。臨済宗相国寺派大本山である相国寺(しょうこくじ)に属する寺院で、京都市左京区銀閣寺町にあります。
銀閣寺は、室町幕府の八代将軍足利義政(あしかがよしまさ)が造立した東山殿(ひがしやまどの)全体を指します。銀閣寺と呼ばれるようになったのは江戸時代以降で、三代将軍足利義満(あしかがよしみつ)の建てた鹿苑寺(ろくおんじ)の舎利殿(しゃりでん)が金閣と呼ばれること対して、東山殿内に建てられた二層楼閣の観音殿(かんのんでん)を銀閣と呼ぶようになり、寺全体の象徴的な建物となることから、慈照寺は銀閣寺と通称されるようになりました。
創建当初は、この観音殿に銀箔を貼る計画があったともいわれますが、創建者の足利義政が建設途中に没したため、詳しいことはわかっていません。
この地には銀閣寺が建てられる前は、天台宗の浄土寺(じょうどじ)がありましたが、室町時代に起きた応仁・文明の乱によって焼失してしまいます。しかし、この地を好んだ足利義政は、焼けたままになっていた浄土寺跡地を山荘造営地として選考し、1482年(文明14年)に東山山荘造営に着手しました。翌年の1482年(文明14年)に自身が起居する常御所(つねのごしょ)が完成すると、政務を嗣子である足利義尚に譲って、この地に移りました。そして1485年(文明17年)には、禅室として西指庵(せいしあん)が完成すると、落髪して喜山道慶(きざんどうけい)と称して出家します。翌年の1486年(文明18年)には、自身の持仏堂として東求堂(とうぐどう)ができています。その翌年の1487年(長享元年)には東山殿会所、泉殿(弄清亭)が完成します。そして、さらに1489年(長享3年)の3月には観音殿(銀閣)の造営を開始しますが、同年の10月に足利義政は病に倒れ、翌年の1490年(延徳2年)1月7日、観音殿の完成見ることなく65年の生涯を閉じることになりました。
足利義政の没後、東山殿は遺命にしたがって禅寺に改められ、法号慈照院喜山道慶(じしょういんきざんどうけい)にちなんで慈照院と命名されました。ついで、1491年(延徳3年)の3月には、名目上の開山として禅僧夢窓疎石(むそうそせき)を招き、慈照寺と改められました。
江戸時代に入ると、銀閣寺は徳川家康より35石の寺領を与えられ、方丈・観音殿(銀閣)・東求堂・西指庵などの建設や修理を行い、荒廃していた庭園の修築がされます。現在の庭園も,大半がこのときに修築されたものです。
明治時代では、廃仏毀釈(はいぶつきしゃく)の影響を受けて一時的に荒廃しますが、住持の努力によって東求堂・方丈・観音殿などが修理されました。また、東求堂の北側に足利義政時代の遺構弄清亭(ろうせいてい)を再興し、さらに庭園にも手を加えられました。
昭和時代の1952年(昭和27年)3月29日には庭園が特別史跡および特別名勝に指定され、平成時代の1994年(平成6年)12月17日には「古都京都の文化財」として ユネスコ世界遺産に登録され、今では京都の観光名所の一つとして、多くの観光客が訪れています。