1月24日は「ゴールドラッシュデー/金の日」です。「ゴールドラッシュデー/金の日」に関係するトピックスを紹介します。朝礼やその日のネタにでもなれば幸いです。
ゴールドラッシュデー/金の日
ゴールドラッシュデー/金の日は、1848年(弘化5年)の1月24日に、アメリカのカリフォルニア州で金の粒が発見され、この噂が広まり、一攫千金を求めて沢山の人たちが集まるカリフォルニア・ゴールドラッシュとなったことに由来しています。
カリフォルニア・ゴールドラッシュ
カリフォルニア・ゴールドラッシュは、ある1人の人物が川の底から金を発見したことから始まります。その人物はアメリカ・ニュージャージー州ランバートビル出身のジェームズ・マーシャル。
マーシャルは1810年(文化7年)に、4人兄妹の長男として生まれました。24歳となった1834年(天保5年)に父が死去すると、ニュージャージー州を出て西へ向かい、インディアナ州、イリノイ州などで過ごしました。34歳になった1844年(弘化元年)には、ミズーリ州に定住し、ミズーリ川沿いで農業を始めます。
しかし、マラリアにかかり、医者の忠告でミズーリ州を去ることになります。翌年の1845年(弘化2年)の7月から、ジョン・サッターという人物が開拓したカリフォルニア州のフォート・サッター(=サッター砦)に住むこととなります。そして、その開拓者であるサッターと出会い、サッターからサクラメント川沿いの土地と牛を与えてもらい、農業を始めます。しかし、1846年(弘化3年)5月から1847年(弘化4年)初めまで米墨戦争に従軍したことで、その間に土地と牛を失ってしまいます。その後、マーシャルはサッターから製材工場建設の現場監督を任せられ、サッター砦から40マイル上流のコロマに工場を建設することになります。
この工場建設こそが、金の発見に繋がることになります。その工場では、水車から水を排出する溝が狭かったため、横で流れていたアメリカン川の水力で掘削することにし、毎朝掘削の結果を調べるようにしていました。
マーシャルが38歳となった1848年(弘化5年)1月24日の朝、いつも通りに掘削の状況を見に出かけます。なげなく水車の下を覗き込んだマーシャルは、水車の下にいくつかの輝く斑点を発見します。その輝く斑点をサッターのところに持って行き、2人で密かにその発見物を分析します。その結果、少なくとも23 カラット(23金、K23、純度96%)の最高級品質の金であることが分かりました。
そして、2人はこの発見を暫くの間、秘密にしておこうとします。サッターは、「もし、金の大掛かりな探索が始まった場合、農業帝国にするために思い描いていた自分の計画にとって都合の悪い何かが起こるんじゃないか」と恐れたためです。
しかし、噂は直ぐに広がり始めます。サンフランシスコの新聞社主で商人のサミュエル・ブラナンは金の発見が真実であると確認されると、金探鉱用物資を売る店を大急ぎで作り上げた後で、「金だ!金だ!アメリカン川から金だ!」と叫びながら、金を入れた小瓶を掲げながらサンフランシスコの通りを闊歩して言いふらしたそうです。
結局、金発見のニュースは全米そして世界にまたたく間に広がり、ゴールドラッシュが始まることとなります。1849年(嘉永2年)になると、アメリカ東部はもとより世界各地から一攫千金を夢みる金鉱探しの人々が殺到しました。また、そこにビジネスチャンスを見た商人や職人、ホテル業者や銀行家たちも大勢押し寄せ、カリフォルニアの人口は爆発的に増加しました。こうしたことから、1849年にカリフォルニアに押し寄せた人々のことをフォーティ・ナイナーズ(49年組)と呼ばれることにもなりました。ちなみに、サンフランシスコに本拠地を置くアメリカンフットボールの強豪チームサンフランシスコ・フォーティ・ナイナーズの名前も、ここに由来しています。
このゴールドラッシュの影響は大変なものでした。サンフランシスコは、1846年当時は人口200人ほどの小さな開拓地でしたが、1852年(嘉永5年)には約36,000人の新興都市に成長し、カリフォルニア中に道路、教会、学校および新たな町が建設されました。この成長により、1850年(嘉永3年)にはカリフォルニアはアメリカ合衆国31番目の州として迎え入れられることになりました。
このように、1人の金の発見によって、カリフォルニアには大きく成長することとなりました。現在、マーシャルが少年時代に暮らした家は保存され、ランバートビル歴史協会の本部として一般に公開されています。そこでは、マーシャルの関係品やランバートビルの歴史に関する物などが展示されています。